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横浜地方裁判所 昭和48年(ワ)1411号 判決

原告

大戸富美枝

右訴訟代理人

石川欣弥

外一名

被告

保田秀夫

右訴訟代理人

増田次郎

外一名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一、原告

「被告は原告に対し、金一〇〇万円およびこれに対する昭和四八年一〇月一四日から支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

訴訟費用は被告の負担とする。」旨の判決。

仮執行宣言。

二、被告

「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」旨の判決。

第二  当事者の主張

一、請求原因

1  被告は、鍼・炙による治療を業とするマッサージ師である。

2  原告は、昭和四八年一月二五日、月経がないので妊娠した事実を知つたが、農家の主婦で、忙しい農業に加え三人の子供の世話と家事に追われている上、さらに子供を産む事は無理だと思い、また、三番目の子供のお産の時には血圧が上つて妊娠中毒の状態になつたことをも考慮し、妊娠中絶をすることにした。

3  偶々、義母から、「中絶をするなら被告に頼むがよい。」と紹介され、被告も「何人もの人々の中絶をしているから、安心して委せなさい。」というので、被告に中絶方を依頼した。

4  昭和四八年二月一九日から同月二二日まで毎日鍼と指圧の治療を受けたが、治療方法としては特に下腹を強く押すので、その部分が赤く腫れあがり紫色の痣となつた。被告は、「中絶は終つた。」といつて、金一、〇〇〇円の料金で戒名「育生院妙好厚徳孝女流産児」を書いてくれた。

5  しかし、依然妊娠しているようなので、同年三月から六月にかけて、再三にわたり治療を受けに行き、徹底的に診てくれるように頼むと、「既に腹の中は空であり、腹が大きいのは更年期障害が原因なのであつて、自分を信用せよ。」というばかりで、同年八月四・五日の両日にわたり再び通うと、「子供ができている。しかも双児だ。双児を中絶した事はないから私の手には負えない。他に行つてくれ。」というに至つた。

6  驚いた原告は八月七日、産婦人科医の診察を受けたところ、妊娠八ケ月で既に中絶する時期を失し手術はできない状態になつていた。そこで、やむなく、同年九月六日、妊娠中毒、高血圧等の苦しみの上、産院で男児を出産した。

7  されば、被告は、診察過誤の不法行為により、原告に対し次の損害を賠償すべき責任がある。〈以下略〉

第三  証拠〈略〉

理由

一〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められる。

1  原告は、昭和四八年一月末妊娠した事実を知つたが、農家の主婦でもあるうえ、すでに子供が三人いてその世話と家事とに忙しく、また、三人目の子供の出産の際には妊娠中毒の状態になつたことなどを考慮して、妊娠中絶をすることにし、同年二月一八日、鍼・炙による治療を業とするマッサージ師である(被告の業務については当事者間に争がない。)被告に、妊娠であれば中絶してくれるよう依頼したところ、被告は、一応更年期障害との診断を理由に、右依頼を黙示的に応諾し、妊娠している場合には中絶に至らしめる意思をもつて、鍼と指圧を開始した。

2  翌(二月一九日)、原告から「ピンク色の塊りが血とともにおりた。」との報告を受け、軽率にも中絶が成功したものと思込み、流産した子のための戒名として「育生院妙好厚徳孝女流産児」とノートの端にボールペンで書き、その部分を千切つて原告に与え、同人が礼として差し出した金一、〇〇〇円を受取つた(被告が右戒名を書いた事実と金一、〇〇〇円を受領した事実とは当事者間に争がない。)。

しかし、実際には、中絶したのではなかつたのである。

3  しかし、その後原告は、自分が依然として妊娠しているようなので、再三被告にその旨を申し述べたが、被告は、既に中絶したものと誤信していて、「既に腹の中は空であり、腹がふくれているのは更年期障害のためである。」といい(被告がこのようにいつたことは当事者間に争がない。)、中絶後に引続いての更年期障害の治療として、鍼・指圧等の治療行為を同年八月に至るまでおよそ計一〇回にわたり継続した。

4  ところが、最後の治療日である八月四日になると、もはや妊娠の事実は被告にも明白となり、良心的に捨てて置かれないと思い、原告に対し、「子供ができている。双児のようだ。私には手に負えないから専門医にみてくれ。」と助言忠告した。

5  原告は、やむなく産婦人科医の診察を受けると、「妊娠八ケ月で、既に中絶の時期を失している。」といわれ、不本意ながら、九月六日、別の産院で男児を出産した。

件上の認定に反する原、被告各本人尋問の結果中の右供述部分はいずれも措信できず、他に以上の認定を左右するに足る証拠はない。

二右認定事実によつて、被告の不法行為の成否を判断するに、そもそも、妊娠中絶は、一般に刑法上堕胎罪を構成するばかりでなく、優生保護法上も特に定められた事由がなければ許されず、右事由がある場合でも都道府県の区域を単位として設立された社団法人たる医師会の指定する医師でなければ許されない(優生保護法一四条一項四号)。しかし、一の1に認定の事実その他本件全立証によるも、右事由ありと認めることはできず、被告は所定の医師ではないのである。したがつて、被告は当初原告の中絶の依頼に対して拒絶すべきであり、応諾した場合は、違法であり且つ公序良俗にも反し、中絶を成功させる義務はなく、特段の事情のない限り、中絶の不成功自体は、原告に対して不法行為とはならない。また、被告が中絶の成功を誤信した後における更年期障害に対する治療においても、依然として妊娠を訴える婦人に対しては、その身体の安全保護に細心の注意を払い、万一妊娠していたならば、治療行為が出産の害悪とならないよう慎重に注意する義務こそあれ、意を迎えて中絶を目的とする行為に出るべきものではない。原告が妊娠中絶していないことを知つた被告が、原告に対し、専門医にかかるよう申し述べたことは正当である。原告は、出産を回避できなかつたことを被告の過失にもとめるが、一旦は中絶行為に出た被告が、前認定の事態の経過の後、原告をしてその意に反して出産するに至らしめても、不法行為は成立しない。不法行為の成立を認めるべき特段の事情は認められない。

したがつて、その余の点につき判断するまでもなく、被告は原告に対して不法行為による損害賠償義務を負わない。

三よつて、原告の請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。 (立岡安正)

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